眠れない夜の散歩道

ベトナム帰りの50代男が綴る東京生活

20億円損した話

先日、夜7時過ぎに事務所を出て駅に向かって歩いていると、大きめのスーツケースを紐でくくったものを引きずり、もう一つのスーツケースを転がしながら車道側から歩道に上がってきた50代と思われる女性がいた。
紐で引っ張っているスーツケースは車輪で転がっているのではなく、横倒しになって地面を擦っていた。

f:id:sieuanhhung:20190202162759p:plain

なんだか変わった人だなあと思いながら通り過ぎようとしたら、声を掛けられた。
「ちょっとお兄さん」
お兄さんという年でもないが、さほど年は変わらないので、呼びかけとしては妥当か。
「はい? 何でしょうか?」
「ちょっとどう説明したらわかってもらえるかわからないんだけど」
何を言われるのか少し警戒しながらもいつの間にか話を聞く態勢に入っている。
「20万でも30万でも渡してもらえると」
ん? どういうこと?

ここで遥か40年近く前の出来事を思い出した。私が高校生のときのこと、夜自転車で走っていたらおじさんに呼び止められた。年齢だの容姿だのはまるで覚えていない。ただおじさんであったことだけが確かだ。だれかに手紙か何かを渡してくれというようなことを言われた。あるいは、渡したいんで呼び出してくれだったかな?
まったく知らない人間のためにどうして自分がそんなことをしなきゃならないのかわからないし、その人が悪人でないという保証もないので、断ってすぐに自転車で走り去った。

あのときのおじさんのようにこのおばさんもだれかにお金を渡したいんだろうか?
でもどうして人に頼むんだ?
「ちょっと意味がわからなんですが」
と言うと、
「お金がないのよ」
えっ? それってどういうこと?
「だからお金を渡してもらえない?」
「いや。意味がわからないんですが」
「この寒さをしのぐ場所もないの」
「それじゃ、交番に行ったらどうですか?」
「お兄さんがお金をくれないのに警察がお金をくれるわけないでしょ」
いやいや。ちょっと待って。なんで5秒前までまったくその存在すら知らなかった私があなたに20万円だか30万円だかを上げなきゃなんないのよ。
ヤバイなあ。どうやってこの場から脱出したらいいんだろう。そんなことを考え始めたとき、
「無理?」
と追撃される。
「無理ですね」
そう答えると、意外なことに彼女はあっさりその場から歩き去っていった。スーツケースを引きずりながら。

いったいあれは何だったのだろうか?
今となって考えてみると、もしかしたら彼女は超大金持ちで、人を試していたのかもしれない。見も知らない人間から困っているからお金をくれといきなり言われて喜んで助けるような人を探していたのかも。
もしもあのとき「わかりました。20万円差し上げます」と言って、コンビニのATMで下ろした1万円札20枚を彼女に渡していたら、私の運命は変わっていたのかもしれない。
「なんと心根の優しい方。感動しました。今の世の中にもあなたのような方がいるんですね。どこのだれかもわからない私に20万円を差し出そうとするあなたのお気持ちに対して、20億円を差し上げます。どうか受け取ってください」
そう言って、ポケットから取り出した小切手帳に20億円と記入して私に手渡したかもしれない。いや、きっとそうだ。
20万円をケチったばっかりに20億円を失ってしまったのか、私は………。

f:id:sieuanhhung:20190202162755j:plain